愛されない信仰
自分は愛されない、大事にされない、
そんな強く信じこんでいるものが、
自分の中にある、というのがカウンセリングの気づき。
ある人が、そんなに私を大切に思うはずない。自分がそう感じるのは妄想で、本当じゃない、と強く信じこんでいる。
そうであった確かさはない。
でも、そうじゃなかった確かさも同じくらいないのだ、とセラピストが言う。
そうなのだ。
どちらも可能性は同じなのに、どうも否定の材料を探してしまう。
恋愛関係→相手にのぞまれるまま、主体性を放棄してしがち
幼馴染→なによりも大事とは思われてないが、拒絶はされない、そんな言外のメッセージを素直にうけとれる。そこに否定の材料はない
せんせ→心配されていたような気がするが、それは自分の勘違いだと思う※なぜかこうなる
せんせの話は感情がよく動く。
でも、その対局にあるのが原家族。
感情が動かない。
怒りも恨みも軽蔑も愛情も喜びも、感じない。
嫌だから避けているとか、
思い出さないようにしているとか、
そういうんじゃなくて、
本当に何もないって感じだ。
初期の段階で愛着形成がなされなかったんだろう、というのがセラピストの見立て。
それでいろいろ筋が通ってくるという。
まあ、まずは感情的な反応は切り離して、事実をみるんだ。
そうすることで、今までと違うものが出てくるはずだ。